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なぜ、オープンソースは自由ソフトウェアの的を外すのか

「自由ソフトウェア」と「オープンソース」の用語はほぼ同じ範囲のプログラムを指します。しかし、そのプログラムについて異なる価値にもとづいて深く異なることを述べます。自由ソフトウェア運動はユーザーのコンピューティングの自由のために活動します。それは自由と正義のための運動です。対照的に、オープンソースの考えは主に実際上の優位性に価値を置き、原理について活動しません。この点が、わたしたちがオープンソースに同意せず、その用語を使わない理由です。

英語でソフトウェアが“free,”であると言うとき、わたしたちは、それが利用者の重要な自由(すなわち、実行し、研究して変更し、コピーを変更ありまたはなしで再配布するという自由)を尊重する、という意味で使います。これは自由の問題であり、値段の問題ではありません。ですから、「言論の自由(free speech)」を考えてください、「ビール飲み放題(free beer)」ではなくて。

この自由は極めて重要です。これは必須のもので、個々人の利用者のためだけではなく、社会全体として重要です。なぜなら、その自由は社会の連帯を促すからです。すなわち、共有と協同です。わたしたちの文化と暮らしの活動はますますディジタル化し、その自由はさらに重要となっています。音声、画像、そして言葉のディジタルの世界では、自由ソフトウェアは自由一般のためにますます必須のものとなっています。

世界中の何千万人もの人がいまや自由ソフトウェアを使っています。インドとスペインのある地域の公的学校では、すべての生徒にGNU/Linuxオペレーティング・システムの使い方を教えています。しかし、これらの利用者のほとんどは、なんのためにわたしたちがこのシステムを開発し、自由ソフトウェアのコミュニティを築きあげたのか、その倫理的な理由についてまったく聞いたことがありません。なぜなら、このシステムとコミュニティは、この頃「オープンソース」として語られることの方が多いからです。そして、自由がほとんど触れられない、異なった理念に帰せられるのです。

自由ソフトウェア運動は1983年より、コンピュータの利用者の自由について運動してきました。1984年に自由のオペレーティング・システムGNUの開発を立ち上げました。利用者の自由を否定する不自由のオペレーティング・システムを避けることができるようにです。1980年代を通じて、システムの必須のコンポーネントのほとんどを開発し、GNU一般公衆ライセンス (GNU GPL)を設計し、このライセンスにもとづいて開発したソフトウェアをリリースしました。このライセンスは、プログラムのすべての利用者の自由を守るために、まさに設計されたのです。

自由ソフトウェアの利用者と開発者のすべてが自由ソフトウェア運動の目標に同意したわけではありません。1998年、自由ソフトウェアコミュニティの一部が分裂し、「オープンソース」の名でキャンペーンを始めました。この用語は、もともとは「自由ソフトウェア」の用語のありうる誤解を避けるために提案されました。しかし、すぐに、自由ソフトウェア運動の理念とは、とても違った理念と結びつけられるようになりました。

オープンソースの支持者の何人かは、この用語を「自由ソフトウェアのマーケティング・キャンペーン」と考えていました。ビジネス経営者に、ソフトウェアの実際的な利点を強調することでアピールしようとしたのです。ビジネス経営者が聞きたくはないであろう、善悪の問題を持ち出すことはせずに。ほかの支持者は、きっぱりと自由ソフトウェア運動の倫理的、社会的価値を拒否しました。どちらの見解をとったとしても、オープンソースをキャンペーンする時に、こういった価値を参照したり、擁護することはありませんでした。すぐに「オープンソース」の用語は、実際的価値、つまり、パワフルで信頼性の高いソフトウェアを作ること、あるいは保持すること、といったことだけにもとづく考えと議論に関連付けられるようになりました。オープンソース支持者のほとんどは、この後に運動に参加し、同じ関連付けをしたのです。「オープンソース」のほとんどの議論は、善悪の問題に何の注意も払わず、人気と成功だけに関心を向けます。こちらに典型的な例があります。オープンソースの支持者の少数は、今日では自由が問題の一部であると言いますが、そう言わない多数のなかでは目立ちません。

二つの用語はほとんど同じソフトウェアの分類を述べますが、基本的に異なった価値にもとづく見解に立脚しています。自由ソフトウェア運動にとって、自由ソフトウェアは倫理的な要請であり、利用者の自由を尊重する本質です。対照的に、オープンソースの理念は、どのようにソフトウェアを実際的な意味だけで「よりよく」するかという面から問題を考えます。それは、不自由なソフトウェアは、手元の実際的な問題に対して劣った解だと言うのです。

自由ソフトウェア運動では、しかしながら、不自由なソフトウェアは社会的な問題であり、ここでの解とは、それを使うことを止めて自由ソフトウェアに移ることです。

「自由ソフトウェア」。「オープンソース」。もし、これが同じソフトウェア(もしくはだいたい同じ)ならば、どちらの名前を使うか、問題なのでしょうか。問題なのです。なぜなら異なる言葉は異なる考えを伝えるからです。自由なプログラムは、名前が何であっても、今日と同じ自由をあなたに与えるかもしれません。しかし、継続する自由の確立は、何といっても、自由に価値を置くことを人々に教えることにかかっているのです。もし、あなたがこれを手伝いたいのであれば、「自由ソフトウェア」を語ることが必須です。

わたしたちは、自由ソフトウェア運動の中で、オープンソース派を敵とは考えません。敵はプロプライエタリな(不自由の)ソフトウェアです。しかし、わたしたちは、人々に自由のために戦っていることを知ってほしいのです。ですから、わたしたちはオープンソース支持者と間違って呼ばれることを容認しません。わたしたちが擁護するのは「オープンソース」ではなく、わたしたちが反対するのは「クローズドソース」ではありません。これを明確にするために、わたしたちはこういった用語を使うことを避けます。

自由ソフトウェアとオープンソースの現実的な相違

実際、オープンソースは自由ソフトウェアのものよりもゆるい基準に立脚します。わたしたちの知る限り、既存のすべてのリリースされた自由ソフトウェアのソースコードはオープンソースとして適格でしょう。ほとんどすべてのオープンソース・ソフトウェアも自由ソフトウェアですが、例外もあります。

第一に、一部のオープンソースのライセンスはとても制限が強く、自由なライセンスとしては適格ではありません。たとえば、Open Watcomでは、そのライセンスが変更したバージョンを作成してプライベートに使うのを認めないので、不自由です。幸いにして、そのようなライセンスは、ほんの少数のプログラムにしか使われていません。

第二に、オープンソースの基準は、ソースコードのライセンシングについてだけ、問題とします。しかし、人々はしばしば実行形式をそのソースコードがこの方式で利用できるから「オープンソース」と言います。これは、逆説的な状況の混乱の元となります。ソースコードはオープンソースで(自由)だが実行形式そのものは自由でない、という場合です。

この逆説の自明なケースは、あるプログラムのソースコードが弱い自由なライセンスでコピーレフトではないものをもっているが、その実行形式は追加の不自由な条件をもつ場合です。その実行形式が、リリースされたソースに正確に対応することを仮定すれば(それはそうであるかもしれませんし、そうでないかもしれません)、ユーザはソースコードをコンパイルし、自由な実行形式を作成して配布できます。これが、このケースが自明である理由です。危険な問題ではありません。

自明でないケースは有害で重要です。コンピュータを内蔵する多くの製品は、実行プログラムの電子署名をチェックして、ユーザが異なる実行形式を実効的に使えないようにブロックします。一つの権限を持った会社だけが、そのデバイスで実行できる、もしくはそのデバイス全体の機能へアクセスができるような実行形式を作成できるのです。わたしたちはこのようなデバイスを「暴君」と呼び、それをみつけた最初の製品(Tivo)から名付けて、この慣習を“tivoization”と呼びます。その実行プログラムが、自由なソースコードから作られ、自由なライセンスが名目的に付いてきたとしても、ユーザは変更したバージョンを有用に実行できませんから、その実行形式は事実上不自由なのです。

多くのアンドロイドの製品には、Linuxのtivoizationされた不自由な実行形式が入っています。そのソースコードはGNU GPLバージョン2の元なのですけれども。(わたしたちはGNU GPLバージョン3をこの慣習を禁止するために設計しました。Linuxがそれを採用しないのは大変残念です。)こういった実行形式は、ソースコードはオープンソースで自由なものから作成されており、「オープンソース」と一般に言われますが、自由ソフトウェアではありません

「自由ソフトウェア」と「オープンソース」のよくある誤解

英語では“free software”(「自由ソフトウェア」)という用語は誤解を呼ぶ傾向があります。「無料で手に入れられるソフトウェア」という意図していない意味が、意図している意味の「利用者にある自由を与えるソフトウェア」と同じくらい適合するのです。自由ソフトウェアの定義を公開することによって、わたしたちはこの問題に対処しています。そして、「『言論の自由(free speech)』について考えてください、『ビール飲み放題(free beer)』ではなく。」と言うのです。これは完璧な解ではなく、完全に問題を除去することはできません。もし、ほかの問題がないのであれば、曖昧でなく正しい用語がより良いのです。

残念ながら、英語においてすべての代替案はなんらかの問題があります。人々が提案したたくさんの用語を見ましたが、明瞭に「正しく」、それに代えることが良いことだというようなものはどれ一つとしてありませんでした。(たとえば、フランス語とスペイン語の言葉“libre”は文脈によってはよいものですが、インドの人々はそれをまったく認識しません。)“free software”に提案された代替の用語は、すべて、意味の上での問題がありました。“open source software”もそのうちの一つです。

オープンソースソフトウェアの公式定義 (オープンソースイニシアティブにより公開されています。ここに収めるには長すぎます)は、わたしたちの自由ソフトウェアの基準から間接的に導き出されたものです。それは同一ではなく、いくつかの面で緩いものです。とは言っても、かれらの定義はわたしたちの定義とほとんどの場合一致します。

しかし、「オープンソースソフトウェア」という表現の明らかな意味は「ソースコードを見ることができる」というものです。まさに、ほとんどの人々は「オープンソースソフトウェア」をこのように誤解しているようです。(この意味のための明確な用語は「ソースが利用可能」です。)この基準は自由ソフトウェアの定義よりかなり弱いものです。また、オープンソースの公式定義よりもかなり弱いものです。これでは、自由でもオープンソースでもないたくさんのプログラムが含まれてしまいます。

なぜ、人々はこのように誤解するのでしょうか? それはこれが「オープンソース」という言葉の自然な意味だからです。しかし、オープンソース擁護者が別の名前に求めた概念は自由ソフトウェアの変異形でした。

この「オープンソース」の明らかな意味は、擁護者の意図する意味ではないので、結果は、ほとんどの人が用語を誤解することとなっています。ライターのニール・ステファンソンによると、「Linuxが『オープンソース』ソフトウェアだとは、単に誰もがソースコード・ファイルのコピーを入手できることを意味する」のだそうです。熟慮の上で、彼が公式の定義を否定もしくは阻止しようとしていたとは思いません。英語の慣例を単純に適用して、用語の意味を思いついたのだと思います。カンサス州は、同じような定義を公表しています: 「オープンソースソフトウェア(OSS)を活用する。OSSとはソースコードが自由に公衆に利用可能なソフトウェアである。コードに対してなにが許されるかについて個別のライセンス同意はそれぞれだが。」

ニューヨーク・タイムズは、 この用語の意味を引き延ばした記事を掲載してしまいました。ユーザのベータテストを指すものとしてこの用語を使いました。つまり、何人かのユーザに初期の版から試させて、機密のフィードバックをもらう、と。これは、プロプライエタリなソフトウェアの開発者が何十年にもわたって使ってきた方法です。

この用語はさらに引き伸ばされ、特許なしに公開された装置の設計を含むまでになりました。特許から自由な装置の設計は賞賛されるべき社会に対する貢献になりえますが、「ソースコード」の用語は、こういった設計には付属しません。

オープンソースの支持者は、かれらの公式定義を指し示すことでこの問題に対処しようとしますが、この修正方法はわたしたちのように効果的ではありません。英語では、“free software”は二つの自然な意味がありますが、ひとつは意図された意味であり、「言論の自由(free speech)で、ビール飲み放題(free beer)ではない」という考えを把握した人は二度と間違えることはありません。しかし、「オープンソース」は一つの自然な意味しかなく、これは支持者が意図している意味とは異なります。ですから、その公式定義を説明し正当化する簡潔な方法はないのです。このことで混乱はより深まります。

もうひとつの「オープンソース」の誤解は、「GNU GPLを使わない」という意味だとする考えです。これは「自由ソフトウェア」は「GPLが適用されたソフトウェア」を意味するというもう一つの誤解とともに起きやすい考えです。これは両方とも間違ってます。GNU GPLはオープンソース・ライセンスとして適格であり、ほとんどのオープンソース・ライセンスは、自由ソフトウェア・ライセンスとしても適格だからです。たくさんの自由ソフトウェア・ライセンスがGNU GPLのほかにもあるのです。

「オープンソース」という用語は、政府、教育、科学といったそのほかの活動への応用によって、さらに引き伸ばされました。ここでは、ソースコードなんてものはありませんし、ソフトウェアのライセンシングの基準は単にしっくりこないのです。このような活動に共通なことは、ともかく人々の参加を招くということだけです。かれらは、この用語を「参加型」や「透明性」を意味するだけ、もしくはそれよりも少ないものにまで引き伸ばしています。最悪に、 無意味なバズワードとまでなっています

異なる価値が同じような結論に達することもあるでしょう — しかし、いつもではありません

1960年代の過激派は、派閥主義の評判がありました。ある団体が戦略の詳細の不一致から分裂し、二つの派生したグループは、同様な基本的目標と価値を有していながらも、互いにそれぞれを敵とみなしたのです。右翼は、これをたくさん行い、左派全体を非難するのに用いました。

ある人は、そのような過激派の不一致とわたしたちのオープンソースとの不一致とを比較することで、自由ソフトウェア運動をけなそうとします。それは逆でしょう。わたしたちがオープンソース派と同意しないのは基本的目標と価値であるけれども、かれらの理念とわたしたちの理念は多くの場合において同じ実際の行動(自由ソフトウェアを開発するなど)をもたらすのです。

結果として、自由ソフトウェア運動からの人々とオープンソース派はソフトウェア開発などの実際のプロジェクトでしばしば一緒に仕事をします。こんなに異なる理念でも、同一のプロジェクトに参加しようと異なる人々をしばしば動機付けるということは、注目に値します。そうは言っても、基本的に異なる考えが、異なる行動につながる状況もあります。

オープンソースの考えは、利用者にソフトウェアの変更と再配付を許すことで、ソフトウェアをよりパワフルに信頼性の高いものにする、ということです。しかし、これは保証されていません。プロプライエタリなソフトウェアの開発者は無能というわけではありません。ときに、かれらもパワフルで信頼性の高いものを作り出します。それが、利用者の自由を尊重するものではないといえども。自由ソフトウェアの活動家とオープンソース熱狂者は、これに対してまったく異なる対応を示すでしょう。

純粋なオープンソース熱狂者、自由ソフトウェアの理想にはまったく影響を受けない人、は、こう言うでしょう。「わたしたちの開発モデルを使わないで、こんなに良く動くプログラムを作ることができたとは驚きだ。でも、君はやった。コピーをもらえないかい?」この姿勢は、わたしたちの自由を取り去り、損失につながる考え方にほうびを与えるでしょう。

自由ソフトウェアの活動家は、こう言うでしょう。「あなたのプログラムは大変魅力的だが、わたしは自由により重きを置きます。ですから、あなたのプログラムは要りません。なにかほかの方法で自分の仕事をします。そして、わたしは自由な代替プログラムを開発するプロジェクトをサポートするでしょう。」もし、わたしたちの自由が大切ならば、わたしたちはこの自由を保持し守ることに行動できるのです。

パワフルで信頼性の高いソフトウェアは不都合かもしれません

ソフトウェアがパワフルで信頼性の高いものであってほしいとする考えは、ソフトウェアが利用者に奉仕するように設計されているという仮定から来たものです。パワフルで信頼性が高いならば、利用者により良く仕えることを意味します。

しかし、ソフトウェアは利用者の自由を尊重する場合にのみ、利用者に奉仕すると言えるでしょう。ソフトウェアがその利用者を鎖につなぐよう設計されているとしたらどうでしょうか。そのとき、パワフルであることは鎖の締め付けがより強く、信頼性が高いことはそれを取り除くことがより困難である、そういったことを意味します。敵意ある機能、たとえば、利用者をこっそり見張ったりすること、利用者を制限すること、バックドア、強制アップグレードなどは、みなプロプライエタリなソフトウェアでは普通のことです。そして、あるオープンソース支持者はオープンソース・プログラムでそういったものを実装したいと考えるでしょう。

映画とレコードの会社の圧力から、個人利用向けのソフトウェアは、ますます利用者を制限するよう、とくに設計されるようになってきています。この敵意ある機能はディジタル制限管理(DRM)(DefectiveByDesign.orgを参照)として呼ばれ、自由ソフトウェアが提供しようと目指す自由の精神のアンチテーゼです。そして精神だけではありません。DRMの目標は、あなたの自由を踏みにじることですから、DRMの開発者は、DRMを実装するソフトウェアを変更できないように、それを困難に、不可能に、違法にさえしようとしています。

そのうえに、あるオープンソース支持者は、「オープンソースDRM」ソフトウェアを提案しました。かれらの考えは、暗号化されたメディアのアクセスを制限するように設計されたプログラムのソースコードを公開し、ほかの人からの変更を許可することによって、あなたのような利用者を制限する、よりパワフルな、より信頼性の高いソフトウェアを作り出すことができる、というものです。そして、そのようなソフトウェアは、あなたの変更が許されない形でデバイスの中に組み込まれ、あなたの手元に届くでしょう。

このソフトウェアはオープンソースかもしれません。オープンソースの開発モデルを使うかもしれません。しかし、それは自由ソフトウェアにはなりえません。なぜなら、それが実際に実行する利用者の自由を尊重しないからです。オープンソースの開発モデルが成功し、このソフトウェアがあなたを制限するためにパワフルで信頼性が高いものとなるならば、もっと事態はひどくなります。

自由の不安

自由ソフトウェア運動からオープンソース派に分かれた人々の当初の主な動機は、自由ソフトウェアの倫理に対する考えはある人々を不安にさせる、というものでした。これは当たっています: 自由のような倫理の問題を取り上げ、利便性と同じように責任を語ることは、無視したいようなこと、たとえば、行いが倫理的であるかどうか、を人々に問うことだからです。これは不愉快な感情を引き起こし、ある人々は単に心を閉ざします。だからと言って、これらの問題を語ることは止めるべきだ、とはなりません。

しかし、オープンソースのリーダたちがこうしようと決めたのがこれでした。倫理と自由について静粛を保ち、ある自由ソフトウェアの直接の実際の利益についてのみを語ることによって、ある種のユーザ、とくにビジネスへ、ソフトウェアをもっと効率よく「売る」ことができるだろうと考えたのです。

オープンソースの提唱者がこれよりもなにか深いことを話すとき、それは通常、人類にソースコードの「贈り物」をするという考えです。これを特別に良い行為と、道徳的に要求されること以上だと、提示するのは、プロプライエタリのソフトウェアをソースコードなしで配布するのは道徳的に適していると前提しています。

このアプローチは通説では効果的であると証明されました。オープンソースのレトリックは、たくさんのビジネスと個人を納得させ、自由ソフトウェアの利用あるいは開発までにさえ、つなげました。それは、わたしたちのコミュニティを大きくしました。しかし、表層の実際の段だけです。オープンソースの理念は、純粋に実際の価値だけを追求し、自由ソフトウェアの考えまで深く理解することを妨げます。オープンソースはたくさんの人々をわたしたちのコミュニティに連れてきますが、自由を守ることを何も教えていません。それが進む限りにおいては、良いものです。しかし、自由を確固としたものにするには十分ではありません。自由ソフトウェアの魅力によってユーザを引きつけるのでは、彼ら自身が自由の守り手になる道程の途中までにしか、ユーザを連れていきません。

遅かれ早かれ、そのようなユーザは、ある実際上の優位性からプロプライエタリなソフトウェアへ転向する誘いを受けるでしょう。数え切れない会社がそのような誘惑を差し出そうと探っていて、場合によっては無償のコピーも提供するほどです。はたしてユーザが断る理由があるでしょうか。学んでいた場合、そのときだけです。自由ソフトウェアが与えてくれる自由について価値を置くこと、個別の自由ソフトウェアの技術上あるいは実際上の利便性ではなく、自由ソフトウェアそれ自体の自由について価値を置くことを。この考えを広めるには、自由について語らねばなりません。一定のビジネスへの「静粛」アプローチはコミュニティにとって有用かも知れませんが、自由への愛を奇抜に感じるのが普通になってしまっては危険です。

その危険な状況に、まさにわたしたちはあります。自由ソフトウェアに関係するほとんどの人は、ディストリビュータはとくに、自由について語りません。通常、「ビジネスに受け入れられるように」模索するためです。ほとんどのGNU/Linuxオペレーティング・システム・ディストリビューションは、プロプライエタリのパッケージを基本の自由システムに加え、これを欠陥ではなく、優位性として考えるよう、ユーザを誘います。

プロプライエタリなアドオン・ソフトウェアと部分的に不自由なGNU/Linuxディストリビューションは肥沃な大地を見つけました。わたしたちのコミュニティのほとんどはそのソフトウェアに自由であることを求めないからです。これは偶然ではありません。GNU/Linuxのほとんどの利用者は、「オープンソース」の議論で、自由が目標だと言わない議論を通じて、システムを知ることになるからです。自由を支持することのない慣習と、自由について語ることのない言葉は相伴ってお互いを促進します。この傾向を克服するには、自由を語ることが必要です。もっと、少しではなく、もっと。

“FLOSS”と“FOSS”

“FLOSS”と“FOSS”は自由ソフトウェアとオープンソースの間で中立であるために使われます。中立性が目的の場合、“FLOSS”が二つの中では、より良いでしょう。それはまさに中立ですので。しかし、自由に立脚したいのであれば、中立な用語の使用はその方法ではありません。自由に立脚することは、必然的に、自由への支持を示すことを伴います。

マインドシェアの競争相手

「自由」と「オープン」はマインドシェアの競争相手です。自由ソフトウェアとオープンソースは異なる考えですが、ほとんどの人がソフトウェアを見る方法において、同一の概念のスロットで競争します。人々が「オープンソース」と言って考えるのが慣習となれば、自由ソフトウェア運動の理念を把握し、それについて考える障害となるでしょう。既に人々が、わたしたちとわたしたちのソフトウェアと「オープン」の言葉を関連付けているならば、わたしたちがほかのものに立脚していると、かれらが認識する前に、わたしたちは知的に衝撃を与える必要があるでしょう。「オープン」の言葉を奨励するどんな活動も、自由ソフトウェア運動の考えを隠すカーテンを広げてしまいがちなのです。

ですから、自由ソフトウェアの活動家は、「オープン」と自身を呼ぶような活動の仕事をしないよう、忠告されます。それ自身が良い活動であったとしても、あなたがなす貢献は、それぞれ、オープンソースの考えを推奨することで、小さな害をなすのです。自身を「自由」あるいは「リブレ」と呼ぶほかの良い活動がたくさんあります。そちらのプロジェクトのそれぞれの貢献は、こちらにとって追加の小さな良いことです。たくさんの有用なプロジェクトがあり、選ぶなら、追加の良いことの方を選びませんか?

結論

オープンソースの擁護者が新しい利用者をわたしたちのコミュニティに引き入れるとき、わたしたち自由ソフトウェアの活動家は、新しい利用者が自由の問題に注意を払うようにその任務を負わなければなりません。「これは自由ソフトウェアで、自由をあなたに与えます!」と、もっと、今までよりも大きな声で言わなければなりません。「オープンソース」ではなく「自由ソフトウェア」と言うとき、あなたはわたしたちの運動を助けているのです。

ラクハニとウルフの自由ソフトウェア開発者の動機に関する論文では、かなりの割合が、ソフトウェアは自由でなければならない、という見解によって動機付けられていると述べています。SourceForgeの開発者を調査したという事実にもかかわらずにです。このサイトはこれが倫理の問題であるとする見解を支持していません。