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GNUハッカー会議でGNU貢献者に面と向かって会おう!

The 8th GNU Hackers' Meeting takes place in Munich, Germany from 15–17 August 2014. It spans three days, and comprises talks about new GNU programs, status of the GNU system and news from the free software community.

登録して今すぐあなたの席を確保しよう。

原文は英語で、これはその翻訳です。

GNU宣言

下記のGNU宣言はリチャード・ストールマンによって、GNUプロジェクトのはじめに、参加と支持を求めて、書かれたものです。最初の数年は、開発を説明するのに少々更新されましたが、すでにほとんどの人々が目にしてますから、今では変更なしのままで置いておくのがよいでしょう。

その時から、よくある誤解について、そしてそれが異なる言い回しで避けられることを、わたしたちは学びました。1993年から脚注を付け足し、この点を明確にしました。

利用可能なGNUソフトウェアについての最新情報は、わたしたちのウェブサーバにある情報、具体的には、わたしたちのソフトウェアの一覧をご覧ください。貢献の仕方については、http://www.gnu.org/help//help.htmlをご覧ください。

GNUってなに? GnuはUnixではない (Gnu's Not Unix)!

GNU、それはGnuはUnixではない(Gnu's Not Unix)を表しますが、わたしが「フリー」に渡し、誰もが使えるように、書いている完全なUnix互換のソフトウェア・システムの名称です。(1) 何人かのほかのボランティアがわたしを助けてくれます。時間、お金、プログラム、そして機器の貢献が大いに必要です。

いままでに、わたしたちは、エディタ・コマンドを書くためのLispがついたEmacsテキスト・エディタと、ソース・レベル・デバッガ、Yacc互換のパーザ生成系、リンカ、そして、だいたい35のユーティリティを有しています。シェル(コマンド・インタプリタ)はほぼ完成しています。新しい移植性のよい最適化Cコンパイラは、自身をコンパイルできるようになり、今年、リリースできるでしょう。初期段階のカーネルは存在しますが、Unixをエミュレートするにはもっと多くの機能が必要です。カーネルとコンパイラが終了すれば、プログラム開発のために適したGNUシステムを配布することができるでしょう。わたしたちはTeXをわたしたちの文書清書系として使いますが、nroffの作業もしています。わたしたちは、自由な、移植性のよいXウィンドウ・システムも使います。その後、わたしたちは移植性のよいCommon Lispや、Empireゲーム、スプレッドシート、そしてたくさんのもの、さらにオンライン・ドキュメンテーションも加えるでしょう。わたしたちは、最終的には、Unixシステムに通常ついてくる、すべての有用なものと、もっと多くを提供することを望みます。

GNUはUnixプログラムを実行できるでしょう。しかし、Unixと同一ではないでしょう。わたしたちのほかのオペレーティング・システムの経験にもとづき、すべての便利な改善を行うでしょう。具体的には、長いファイル名、ファイルのバージョン番号、クラッシュ耐久ファイルシステム、おそらくファイル名補完、ターミナル非依存ディスプレイサポート、そして、たぶん最終的には、数種のLispのプログラムと通常のUnixプログラムが画面を共有できるLispベースのウィンドウシステム、を計画しています。CとLispがシステムのプログラム言語として利用可能でしょう。UUCPやMIT Chaosnet, そしてインターネットの各プロトコルを通信のためにサポートしようとしています。

GNUは最初は仮想メモリのある68000/16000クラスのマシンを対象としています。なぜなら、それらは走らせるのにもっとも容易なマシンだからです。より小さなマシンで走らせる追加の努力は、それを使いたい誰かに残されます。

とんでもない混同を避けるため、このプロジェクトの名前の時は、“GNU”のgを発音してください。

なぜ、わたしはGNUを書かねばならないか

わたしは、黄金律は、わたしがあるプログラムを好きならば、それを好きなほかの人々と共有すべし、と要請すると考えます。ソフトウェアの販売者はユーザを分割し、征服しようとします。それぞれのユーザをほかと共有しないことについて同意させて。わたしは、このやりかたで、ほかのユーザとの連帯を破ることを拒絶します。わたしは、良心から、非開示契約やソフトウェア・ライセンス同意書に署名できません。わたしは、何年も、人工知能研究所(AIラボ)の中で、そのような傾向やほかの冷遇に対して抵抗するよう働きかけてきましたが、最終的には、それはとても遠くに行ってしまいました: わたしの意志に反してわたしにそのようなことが行われる機関に留まることはできません。

屈辱なしにコンピュータを使うことを続けられるために、わたしは、十分な自由ソフトウェアをひとそろい、まとめることを決意しました。そうして、どんな自由でないソフトウェアなしでもやっていけるように、です。わたしはAIラボを辞して、わたしがGNUを渡すのを禁じる、どんな法的理由もMITに与えませんでした。(2)

なぜGNUはUnixと互換となるのか

Unixはわたしの理想のシステムではありませんが、そんなに悪くもありません。Unixの重要な機能はよいもので、わたしはUnixに欠けているものを、重要な機能を損なうことなく、補うことができるだろうと考えました。そしてUnixと互換のシステムは多くのほかの人々が採用するのに便利でしょう。

どのようにしてGNUは利用可能となるのか

GNUはパブリック・ドメインではありません。誰もがGNUを改変して再配布することが認められますが、さらなる再配付を制限することは、どの配布者にも認められません。つまり、プロプライエタリな改変は許されません。わたしは、すべてのGNUのバージョンが自由のままであることを確実にしたいのです。

なぜ、たくさんのほかのプログラマが援助したいのか

多くのほかのプログラマがGNUについて興奮し、支持を希望するのを、わたしは知りました。

システムソフトウェアの商用化について多くのプログラマは快く思っていません。より多くのお金を得ることを可能とするかもしれませんが、それは、朋輩として感じるのではなく、通常、ほかのプログラマと衝突を感じることを要求します。プログラマの間の友情の基本的な行動は、プログラムの共有にあります。今、典型的に用いられるマーケティングの取り決めは、本質的にプログラマがほかの人々を友人として扱うことを禁止します。ソフトウェアの購入者は、友情か、法律に従うか、のどちらかを選択しなければならないのです。当然、多くの人が友情がもっと重要だと決めるでしょう。しかし、法律を信じる人々はどちらの選択でも安堵しません。かれらは冷笑的となり、プログラミングは単にお金を得る方法だと考えるのです。

プロプライエタリのプログラムではなく、GNUについて作業したり、使うことによって、すべての人を歓待し、法律に従うことができます。加えて、GNUは、わたしたちに加わって共有するよう、ほかの人々を結集するように激励し、その旗印となる一例を務めるでしょう。これは、もし、わたしたちが自由でないソフトウェアを使った場合には不可能である、調和の感覚をわたしたちに与えてくれます。わたしが話したプログラマの半数にとって、これはお金では置き換えられない重要な幸福です。

どのようにあなたは貢献できるか

(昨今では、実施すべきソフトウェアのタスクについて、優先度の高いプロジェクトのリストGNUの求める支援のリスト、GNUソフトウェア・パッケージの一般タスクリストをご覧ください。そのほかの支援の方法については、GNUオペレーティング・システムを手伝うガイドをご覧ください。)

コンピュータ製造業者にはマシンとお金の寄付を求めています。個人にはプログラムと作業の寄付を求めています。

マシンを寄付した場合に期待できる一つの結果は、GNUは早い時期にそのマシンで動くだろう、というものです。マシンは完全で、すぐに使えるシステムで、居住地域での使用が認められ、特別な空調や電源設備が必要のないものであるべきです。

とてもたくさんのプログラマがパート・タイムでGNUの仕事に貢献したいと切実に願うのを知りました。ほとんどのプロジェクトでは、そのようなパート・タイムの分散した仕事は調整がとても困難でしょう。独立に書かれた部分が一緒には動かないからです。しかし、Unixを置き換えるというこの具体的な仕事については、この問題はありません。完全なUnixシステムはたくさんのユーティリティプログラムからなり、それぞれが別々に文書化されています。もし、それぞれの貢献者が一つのUnixユーティリティの互換の置き換えを書くことができ、そしてUnixシステムにおいてオリジナルに代わって正しく動かせる場合、それらのユーティリティは一緒にしたときに正しく動くでしょう。マーフィーにいくつかの予期しえない問題を生み出すことを許したとしても、これらの部分を組み合わせることは実現可能な仕事です。(カーネルは緊密なやりとりを必要とし、小さく密接なグループによって作業されるでしょう。)

お金の寄付を得たならば、フルタイムもしくはパート・タイムで何人かの人々を雇うことができるでしょう。プログラマの標準からすれば給与は高くはないでしょうが、コミュニティの精神を築きあげることがお金を得るのと同じくらい重要であるという人々を探しています。わたしは、これを、専従の人々が、そのすべてのエネルギーをGNUの作業に向けることを可能とする方法、と考えています。別の方法で生計を立てる必要から免れることができますから。

なぜ、すべてのコンピュータ・ユーザが利益を受けるのか

一旦、GNUが書かれたら、すべての人が良いシステムソフトウェアを、ちょうど空気のように、自由に得ることが出来るのです。(3)

これは、すべての人々がUnixライセンスの値段を節約できる以上の、たくさんのことを意味します。それは、システム・プログラミングの努力のたくさんの不必要な重複が避けられることを意味します。その努力は、代わりに、最先端の技術をより進めるために使えるのです。

完全なシステムのソースがすべての人に利用可能となります。結果、システムに変更を必要とするユーザは自分で変更する自由が常にあるようになります。または、誰でも利用可能なプログラマや会社を雇って、変更してもらうことができるでしょう。ユーザは、ソースコードを所有し、変更ができる単独の地位にいる一人のプログラマ、あるいは一つの会社の慈悲にすがる必要はもうなくなるのです。

学校は、すべての学生に、システムコードを研究し改善することを奨励することで、とても教育的な環境を提供することができるようになるでしょう。バーバード大学のコンピュータ・ラボはかつてソースが一般公開されていプログラムは決してシステムにインストールされないというポリシーを有していました。そしてこれを掲げ、実際にあるいくつかのプログラムをインストールすることを拒否していました。わたしは、これに大きく影響を受けました。

最後に、誰がシステム・ソフトウェアを所有し、なにがそれとともに行われる資格があるのかないのかを検討するオーバヘッドがなくなるでしょう。

あるプログラムを使うために人々に支払わせる協定は、コピーのライセンシングを含め、常に、どれだけ(すなわち、どのプログラムに)ある人が支払わなければならないのかを計算するために必要なやっかいな仕組みを通じて、社会に大変なコストを常に強います。警察国家だけがそれを皆に従うよう強制できます。空気を製造するのに大変なコストがかかる宇宙ステーションを想像してみてください。空気を吸うめいめいの人に、1リットルあたりの空気に課するのは公正かも知れませんが、計器付きのガスマスクを昼間中、夜中つけるのは、皆が空気の請求に支払うことができるとしても、耐えられません。あなたがマスクを外していないか、監視するテレビカメラをすべての場所に置くとなっては暴虐でしょう。それよりも、人頭税で空気プラントをサポートし、マスクはやめる方が妥当でしょう。

プログラムのすべてあるいは一部をコピーすることはプログラマにとって、呼吸することのように自然です。そしてそれは生産的です。それは自由であるべきです。

GNUの目標に対する容易に反駁できる反論

「それが自由ならば誰も使わないでしょう。なぜなら、それにはどんなサポートも期待できないことを意味するからです。」

「サポートを提供するために料金を支払うよう課すべきです。」

人々が、GNUを無料でサービスなしではなく、むしろGNUと加えたサービスに支払うのであれば、GNUを無料で取得した人々にサービスだけを提供する会社が利益を生むでしょう。(4)

実際のプログラミングの仕事の形態のサポートと、単なる取扱いを区別しなければなりません。前者はソフトウェア・ベンダには期待できないものです。あなたの問題が十分な人々に共有されていない場合、ベンダーはあなたに、失せろ、というでしょう。

あなたのビジネスがサポートに期待する必要がある場合、唯一の方法は、必要なソースとツールをすべて持つことです。そうすれば、あなたはあなたの問題を修正する人を誰でも良いから雇うことができ、あなたは、どの個人の慈悲にすがる必要もないのです。Unixでは、ほとんどのビジネスにおいて、ソースコードの値段のため、これは考慮の対象となりません。GNUではこれは容易となるでしょう。誰も競争力を持った人がいない、という可能性もなおありますが、この問題は配布の取り決めに対して文句を言うものではありません。GNUはこの世界のすべての問題を一掃するのではありません。問題のいくつかに過ぎません。

一方、コンピュータについて何も知らないユーザは取扱いを必要とするでしょう: かれら自身で容易にできるけれども、どうやったらいいか知らないことを、かれらのためにするのです。

そのようなサービスは単に取扱いと保守を売る会社によって提供できます。もし、ユーザがお金を費やしてサービス付きの製品を入手するというのが当たっているならば、製品を無料で入手してサービスを買いたいでしょう。サービスの会社はその品質と値段で競争するでしょう。ユーザはどの特定の会社にも縛られません。一方、サービスは必要としないわたしたちは、サービスに支払う必要なく、プログラムを使えるべきです。

「広告なしには多くの人々に届くことができません。そしてそれをサポートするにはプログラムに(料金を)課さねばなりません。」

「人々が自由に入手できるプログラムに広告することなど無用です。」

GNUのようなものについてたくさんのコンピュータユーザに知らせるのに使える無料あるいはとても安い広報の様々な形態があります。しかし、たくさんのマイクロコンピュータのユーザに、広告でたどり着けるというのは事実でしょう。本当にそうであれば、料金をとってGNUをコピーして郵送するサービスに広告を出すビジネスは、広告の支払いをするのに十分足るように成功するでしょう。この方法では、広告から利益を得るユーザだけがそれに支払いをするのです。

一方、多くの人がGNUをその友達から得て、そのような会社が成功しない場合、GNUを広めるのに実際は広告は必要ないことを示すでしょう。自由市場の擁護者は自由市場がこれを決めるようにしたいと思わないのはなぜでしょうか?(5)

「わたしの会社はプロプライエタリなオペレーティング・システムを競争力を得るために必要とします。」

GNUはオペレーティング・システムのソフトウェアを競争の領域から除くでしょう。この領域では、あなたは優勢ではいられないでしょう。あなたの競争相手もあなたに対して優勢であることはできないでしょう。ほかの領域で競争し、ここでは互いに利益を得るのです。あなたのビジネスがオペレーティング・システムを売ることであれば、あなたはGNUを好まないでしょう。それは、あなたにとって厳しいことでしょう。あなたのビジネスがそのほかのことであれば、GNUは、高価なオペレーティング・システムを売るビジネスに押し込まれることからあなたを救うことができるでしょう。

GNUの開発が、たくさんの製造業者とユーザからの恩恵で支援され、それぞれのコストを削減することを、みてみたいと、わたしは願っています。(6)

「プログラマはその創造性に対して報酬に値しないのでしょうか?」

なにかが報酬に値する場合、それは社会的貢献です。創造性が社会的貢献であることもありえるでしょう。しかし、社会が自由に結果を利用できる場合に限られます。もし、プログラマが革新的なプログラムを作ったことで報酬に値するならば、同様な理由で、そのプログラムの利用を制限した場合には罰に値します。

「プログラマはその創造性に対して報酬を要求することができるべきではないでしょうか?」

仕事に対して支払を望むことや、収入を最大にしようと努めることは、破壊的な方法を用いるのではない限り、まったく問題ありません。しかし、今日、ソフトウェアの分野で慣習となっている方法は破壊にもとづいています。

プログラムのユーザから、ユーザの使用を制限することでお金を引き出すことは破壊的です。なぜなら、その制限は、プログラムが利用されうる量と方法を減らすからです。これは人類がそのプログラムから引き出す富の量を減らします。制限する故意の選択がある時には、悪影響は故意の破壊です。

善き市民が豊になるためにそのような破壊的方法を用いない理由は、もし皆がそうすれば、相互の破壊によって全員が貧しくなってしまうからです。これはカントの倫理です。もしくは、黄金律です。皆が情報を秘蔵する場合の影響の帰結をわたしは好まないので、そうすることは間違っていると考えるべきだと、わたしは、考えます。具体的には、創造性への報酬を得たいという欲望は、その創造性の全体あるいは一部を世間一般から奪うことを正当化しません。

「プログラマは飢えませんか?」

プログラマになることを誰も強制されない、と答えましょうか。ほとんどの人は街角に立ってにらめっこをしてお金を得ることはできません。しかし、その結果として、一生を街角に立ってにらめっこをすることに費やしなさいと宣告され、飢えてしまう、ということはありません。わたしたちはなにかほかのことをします。

しかし、これは、間違った答えでしょう。なぜなら、質問者の暗黙の仮定を受け入れているからです。ソフトウェアの所有者なしには、プログラマは1セントたりとも支払われることができない、との仮定です。いわゆるオール・オア・ナッシングの考え方です。

プログラマが飢えない本当の理由は、プログラミングで支払いを得ることがそれでも可能だからです。今と同じように多くはないだけです。

コピーをすることを制限することだけが、ソフトウェアのビジネスの基礎ではありません。それがほとんどのお金を持ってくるので、これは、もっともよくある基礎(7)です。それがもし禁止されている場合、あるいは、顧客から拒否される場合、ソフトウェアのビジネスは、今はあまり用いられていない、ほかの組織化の基礎へと移行するでしょう。いろいろなビジネスを組織するたくさんの方法が常にあります。

プログラミングは、おそらく、新しい基礎では、今のように儲かるものではないでしょう。しかし、これは変革への反論とはなりません。販売事務員がいまそうしているように給与を得るのは不正とは考えられません。プログラマが同じようにした場合、それも不正ではないでしょう。(実際には、プログラマはそれよりも十分多くを得るでしょう。)

「創造性がどのように使われるかコントロールする権利を人々は有しませんか?」

「ある人のアイデアの利用をコントロールする」ということは、実に、ほかの人々の生活をコントロールすることから構成されます。そして、それは通常、その暮らしをより困難にしてしまいます。

知的財産権(8)の問題を慎重に研究した人々(法律家のように)は、知的財産には本来備わっている権利はない、と言います。政府が認識する、信じられている類の知的財産権は、特定の目的のための特定の法律によって作られたものです。

たとえば、特許のシステムは発明者がその発明の詳細を開示することを推奨するように作られました。その目的は発明者を助けることではなく、社会に役立つように、でした。当時、特許の17年の寿命は、最先端の進歩の速度と比較すると短いものでした。特許は製造者間だけの問題であり、製造者にとってライセンス合意のコストと努力は、生産の設立と比較すれば小さく、特許は、しばしば、そんなに有害なものではありません。特許製品を使うほとんどの個人を妨害することはありません。

著作権の考え方は古代には存在せず、著者は、ほかの著者のものをノンフィクションの作品にしばしば長々とコピーしました。この慣習は有用だったし、たくさんの著者の作品が部分的にも生き長らえた唯一の方法です。著作権のシステムは、著者を推奨する目的のためにわざわざ作られたのです。それが発明された領域(印刷機だけで経済的に複製されることができる、書籍)では、害をなすことはほとんどなく、書籍を読む、ほとんどの個人を害することはありませんでした。

すべての知的財産権は、単に、社会によって与えられるライセンスです。正しいか間違っているかはともかく、社会が全体として、それを与えることにより、利益を享受することができる、との考えでした。しかし、いかなる特定の状況においても、わたしたちは問わなければなりません: そのようなライセンスを与えることが実際よいことだろうか、と。わたしたちがどのような行動を、人々にライセンスしているのか、と。

今日のプログラムのケースは百年前の書籍の場合と大きく異なります。プログラムをコピーする一番簡単な方法は、ある隣人からその隣人へ、であるという事実、プログラムにはソースコードとオブジェクトコードがあり、それらは異なるという事実、プログラムは読んだり楽しんだりするよりも、使うものであるという事実、それらが組み合わさって、著作権を行使するある人が物心両面で社会全体に害を為すという状況を生み出しています。この状況では、法律がそれを可能にするかどうかに関係なく、そうするべきではありません。

「競争が、ものごとをよりよいものとします。」

競争のパラダイムはレースです。勝者に報酬を与えることによって、皆を速く走るように促します。資本主義が本当にこの方法で働くとき、競争はよい仕事をしますが、その擁護者は、間違って、いつもそのように働くと仮定します。走者が、なぜ報酬が与えられるのかを忘れ、何がなんでも勝つということに固執すれば、ほかの戦略を見つけるかもしれません。ほかの走者を攻撃する、というように。走者が素手で殴り合うようになれば、全員が遅くゴールすることになります。

プロプライエタリな秘密のソフトウェアは素手で殴り合う走者と道徳的に同等です。悲しいことに、わたしたちのレフェリーは、格闘に反対ではないようで、調整するだけです(「10ヤード走る毎に一発だけ殴れます」、と)。レフェリーは本当はかれらを止めに入るべきで、格闘しようとしただけでも走者を罰するべきなのです。

「金銭の報奨がなければ、みんなプログラミングを止めてしまうのでは?」

実際、多くの人々はまったく金銭的な動機なしにプログラムするでしょう。プログラミングは、ある人々には抗しがたい魅力です。通常、そうするのに最適な人々にとって。その方法で生計を立てる希望がまったくなくても、プロフェッショナルのミュージシャンの不足の心配はまったくありません。

しかし、実はこの質問は、よく尋ねられますが、状況に適したものではありません。プログラマに支払うことは消えてしまうことはないでしょう、少なくなるだけです。ですから、正しい質問は、削減された金銭の動機で、誰かがプログラムをするでしょうか? というものです。わたしの経験では、プログラムする人はいる、のです。

10年以上にわたり、たくさんの世界で最高のプログラマが、ほかであれば得られるよりも大変に少ないお金でAI研で働きました。かれらはいくつもの金銭ではない報酬を得たのです。たとえば、名声、感謝です。そして、創造性は楽しいもので、それ自身が報酬です。

それから、同じ興味深い仕事をたくさんのお金でできる機会が提示された時に、ほとんどは去りました。

この事実が示すことは、金持ちになるよりもほかの理由で人々はプログラムするということです。しかし、同時にたくさんのお金を得る機会が与えられれば、それを期待し、要求するようになるでしょう。低給を支払う組織は、高給を支払う組織に競争に勝ち得ませんが、高給を支払う組織が禁止されれば、やっていけないわけではありません。

「わたしたちはぜひともプログラマが必要です。かれらが、わたしたちの隣人を助けることを止めることを要求するなら、わたしたちは従わなければなりません。」

そういった類の要求に従わなければならないほど、どうしても必要ということは決してありません。忘れないように: たとえ何百万かかろうとも防衛を、しかし、賄賂には1セントも払うな、です。

「プログラマはなにかで生計を立てる必要があります。」

短期的には、これは正しいでしょう。しかし、プログラマがプログラムを使う権利を売ることなく生計を立てられるたくさんの方法があります。この方法がいまやありふれているのは、それがプログラマやビジネスマンにほとんどのお金をもたらすからで、それが生計を立てる唯一の方法だから、ではありません。探そうと思えば、ほかの方法を見つけることは容易でしょう。いくつか例をあげてみましょう。

新しいコンピュータを作る製造者は、新しいハードウェアにオペレーティング・システムを移植するために支払うでしょう。

指導や取扱い、保守のサービスもプログラマを雇うでしょう。

新しいアイデアを持った人々は、プログラムをフリーウェア(9)として配布して、満足したユーザに寄付をお願いしたり、取扱いサービスを販売できるでしょう。わたしは、この方法で働くことにすでに成功している人々に会ったことがあります。

関連する需要があるユーザは、ユーザグループを結成し、会費を集めることができます。グループはプログラミングの会社と契約して、グループのメンバーが使いたいプログラムを書いてもらうのです。

すべての種類の開発は「ソフトウェア税」で資金提供を受けることができます:

コンピュータを買う全員がソフトウェア税として金額の x パーセントを支払わなければならない状況を考えてみましょう。政府はこれをNSFのような機関に与え、ソフトウェアの開発に使うのです。

コンピュータの購入者がソフトウェア開発に自身で寄付する場合には、税の控除を受けることができます。自身で選択したプロジェクトに寄付できます。しばしば、それは選択されます。それがなされた時の結果を使いたいと希望するからです。支払わなければならない税額にいたるまで、寄付の控除を受けることができます。

税率は納税する金額に応じて重み付けられた納税者の投票で決められます。

その結果:

長期的には、プログラムを自由にすることは、供給不足の時代の後の世代の世界への一歩でしょう。そこでは、誰も生計を立てるためだけに懸命に働く必要はないでしょう。そこで、必要な週10時間の仕事、立法、人生相談、ロボットの修理、小惑星探査といったもの、の後には、人々はプログラミングのような楽しい活動に専心する自由があるでしょう。プログラミングで生計を立てられる必要はないでしょう。

実際の生産性のために社会全体が行わなければならない労働の量は、既に大きく削減されてきていますが、そのほんの少ししか労働者の余暇へと変換されてません。これは、たくさんの非生産的活動が生産的活動にともなって必要となるからです。この主な原因は官僚主義と「どんぐりの背比べ」の競争です。自由ソフトウェアは、ソフトウェアの生産の分野で、この流出を大いに削減するでしょう。わたしたちはそうしなければなりません。生産性の技術的利得を、わたしたちのより少ない労働に変換するために。

脚注

  1. ここでの表現は不注意でした。ここでの意図は、誰もが、GNUシステムを使う許可のために支払う必要はない、というものでした。しかし、この言葉はこれをはっきりとしておらず、よく、人々はこれをGNUのコピーは常に少額か無料で配布されなければならない、と言うように解釈します。これは決してその意図ではなく、この後で、宣言は利益のために配布サービスを提供する会社の可能性について触れています。その後、わたしは、自由の意味での「フリー」と値段の意味での「フリー」を注意深く区別することを学びました。自由ソフトウェアはユーザが配布し変更する自由のあるソフトウェアです。あるユーザはコピーを無料で得るでしょうし、ほかの人はコピーを得るのに支払うでしょう。そして、もし資金がソフトウェアを改善するのに役立てば、それはよりよいことです。重要なことは、そのコピーを持つすべての人がそれを使用してほかの人々と協力する自由があることです。
  2. 「あげる」の表現は、値段の問題と自由の問題を明確に区別していなかったもう一つのあらわれです。わたしたちは、今、自由ソフトウェアについて語るときこの表現を避けるよう奨めます。より詳しい説明は、「紛らわしい言葉と言い方」をご覧ください。
  3. ここはわたしが「フリー」の二つの異なる意味について、注意深く区別することを失敗した、もう一つの場所です。この文自体は間違いではなく、あなたの友達から、あるいはネットを通じて、GNUソフトウェアのコピーを無料で入手することはできます。しかし、これは間違った考えを示唆します。
  4. そういった会社はいくつか今存在します。
  5. 会社ではなく慈善団体ですが、フリーソフトウェアファウンデーションは10年の間、その資金のほとんどを配布サービスから得ていました。あなたは、その仕事を支持するために、FSFのものを注文することができます。
  6. 1991年あたりで、コンピュータ会社のグループが、GNU Cコンパイラの保守を支援するために、資金を集めました。
  7. プロプライエタリのソフトウェアがソフトウェアにおいて金銭を得るためのもっともよくあるベースだと言ったのは間違いだったと思っています。実は、もっともよくあるビジネスモデルは、カスタム・ソフトウェアの開発、だった/である、と考えられます。これは使用料の収集の可能性を提供しませんから、このビジネスは収入を得つづけるために実際の仕事を続けなければなりません。カスタム・ソフトウェアのビジネスは、自由ソフトウェアの世界でも、おおかれすくなかれ、変わることなく、存在しつづけるでしょう。ですから、わたしは、ほとんどの雇われたプログラマが自由ソフトウェアの世界で少なく稼ぐとは、もはや考えていません。
  8. 1980年代に、わたしは「知的財産」の「この問題」について話すことがいかに紛らわしいかをまだわかっていませんでした。この用語はあきらかに偏向していて、もっとずるいのは、まったく異なった問題を提起する、さまざまな異種の法律を一緒にひとまとめにするという事実です。今日では、わたしは、こういった法律がひとつの筋の通った形態を成していると人々が誤解しないように、人々に全面的に「知的財産」の用語を拒絶するよう勧めています。明解な方法は、特許、著作権、商標と別々に議論することです。この用語が如何に混乱と偏見をひろげるかについては、さらなる説明をご覧ください。
  9. その後、わたしたちは「自由ソフトウェア」と「フリーウェア」の違いを学ぶことになりました。「フリーウェア」は再配布が自由なソフトウェアを意味し、通常はソースコードを研究し変更するのには自由ではありません。ですから、そのほとんどは自由ソフトウェアではありません。詳しい説明は、「紛らわしい言葉と言い方」をご覧ください。

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